誰にも夢があり、それはだいたい果たせない。
ジミーもジャイアンツの4番に座ったことはない。
小説家を志す文学青年は、古い世代の理想であった。漫画「三丁目の夕日(夕焼けの詩)」の茶川竜之介のような、けちで変わり者の老人ではない。(映画版ではもう30代ではあるが、古い世代の文学青年になっている。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%B8%81%E7%9B%AE%E3%81%AE%E5%A4%95%E6%97%A5%E3%81%AE%E7%99%BB%E5%A0%B4%E4%BA%BA%E7%89%A9
クレア女房の父・たぬきじいさんは、友人(福永武彦)が『草の花』を書いたので、自分に才能がないと悟り、早々とその夢を断念したという。
後に、たぬきじいさんが書いたものを見ると、その決断は正しかったようだ。
ピース又吉「火花」を見ると、いろいろと考える。
ジミーの父・きつねじいさんは、それでもしぶとく文士仲間と遊び、随筆などを書いていたが、ついにヒット作に恵まれず、断念し、それから英文学を志した。家族を養うために、いくつもの高校、大学で非常勤をこなしていた。
英文学研究の中でも、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の研究に没頭したようだ。
たぬき女房が、きつねじいさんが就職のために毛筆で書いた業績を持ってきてくれたが、ハーン研究の論文のほか、「文学入門」「英文学入門」というハーンの原著の訳も出版している。どこかに残っているのかな。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%B8%81%E7%9B%AE%E3%81%AE%E5%A4%95%E6%97%A5%E3%81%AE%E7%99%BB%E5%A0%B4%E4%BA%BA%E7%89%A9
この間の「きつね一族の会」は、「みんなが生きているうちに」という趣旨。
従って老人ばかり集まり、妖怪大戦争のようだったが、きつねじいさんが五高の学生だった頃にハーンの講義を聴いたはずだ、などという見解も現れた。しかしハーンが五高に赴任したのは1891年、たぬき女房保管の資料によると、きつねじいさんが入学したのは1921年だから、これはありえない。
それだけ、きつねじいさんは、幼いジミーたちにハーンのことばかり話をしていたのだろう。
お陰で、ハーンの俳句の説明がジミーにしみこみ、アメリカ留学のときに、ロースクールの教授に、英語で、自分の解釈だと信じ込んで、俳句の説明を堂々として、感心させた。
「ジミー説」という刑法の学説も、もしかしたらこんなことなのかも知れない。自分ではオリジナルだと思っているだけで、本当はだれに洗脳されたのかもしれない。
ライオン、ドラゴン、パンダのどの先生だろうか。
熊本に行ったときに、小泉八雲邸を見た。
42年前、学会で「治療行為に関するジミー説」(通常人にはえらくつまらない内容)を発表した後、すぐに逃げだし島根に行った。
雨の松江で見たハーンの小さな屋敷の庭には、がま君がいた。
そのときの感動よりは、熊本の方が小さかった。
年をとると知識は増え、深い理解力も成長するが、感覚の鈍磨は避けがたい。
だが、年をとっても原点に立ち返ることはできる。
ジミーの書斎もハーンの書斎のようにしたい。
若者と同じように、ジミーはかたちから入る。